「作業手順書を作ったのに、なかなか守ってくれないんですよ」
「終業時に日報を書く規定にしたんですが、提出率が上がらないんですよね」
こうした声は、業務の仕組み化を推進しているマネージャーからたびたび聞かれます。
マニュアル化、手順整備、業務標準…それらが整っていても、「人が動かない」。それは決して現場の怠慢ではありません。多くの場合、「人間の意思決定の癖」に配慮されていない仕組み設計に原因があります。
こうした課題を解決する方法として注目を集めているのが、「ナッジ理論」です。
ナッジとは何か?
ナッジ(nudge)とは、英語で「肘で軽くつつく」「そっと背中を押す」といった意味の言葉です。行動経済学の研究者であるリチャード・セイラー(シカゴ大学教授)が提唱した概念で、人の意思決定にさりげなく影響を与える設計手法として注目され、2017年にはノーベル経済学賞を受賞しています。
ナッジの特徴は、強制でも命令でもないこと。あくまで「自発的に選んだように感じさせる」ことがポイントです。気づけばやっていた、思わず行動してしまった──そのような仕組みをいかに自然につくるか。それがナッジの本質です。
なぜ仕組み化にはナッジが必要か?
多くのマネージャーは、業務ルールを作り、明文化し、通知し、教育を行います。それでも人が動かないのはなぜか?
それは、人間の意思決定が「合理性」ではなく、「習慣」や「感情」、「環境」といった非合理な要素に大きく左右されるからです。
したがって、仕組み化を成功させるには、「理屈」よりも、「ついやってしまう」状況を設計するほうが効果的なのです。
ナッジの種類と活用パターン
以下に、代表的なナッジのパターンと事例をご紹介します。
① デフォルト設定(初期値の工夫)
最も有名で効果が高いナッジのひとつが「デフォルト設定」です。
- 提出すべき書類に、記載すべき内容があらかじめ入力されており、必要な修正だけすれば提出できるようになっている。
- 使うべき業務システムが、PCを起動すると自動的に立ち上がる。
- 省エネのため、オフィスの照明が一定時間になると自動で消灯し、必要な人だけが自分のエリアのみ再点灯できる。
- 免許証などでの臓器提供意思表示で、「提供する」がデフォルトとなっており、「提供しない」場合のみ選択する。
- 携帯電話などの申し込みで、オプション機能がデフォルト申し込みになっている。
② 社会的証明(みんなやっている)
人は、「自分以外の人もやっている」と感じると、自分もやらなくてはという心理が働きます。
- 日報提出について「昨日の提出率は92%。あなたの部は85%でした」といった情報を、毎朝全社員に送付して提出を促す。
- 「すでに80%の方がマイナンバーに登録しています」といった広報で、登録を後押しする。
③ リマインダー(忘れさせない)
忙しい現場では、「うっかり忘れた」というのも大きな要因です。タスクが埋もれないよう、定時前にリマインダーを出すことで行動率を高められます。
- 「そろそろ日報の時間です!今日も一日お疲れさまでした!」というメッセージを毎日自動送信することで、日報提出率が改善。
- 駅やエスカレーターなど「歩きスマホ」の危険が高い場所・タイミングで、「歩きスマホは危険です」と注意喚起のポスターを掲示。
- Amazonなどで「お買い忘れの商品があります」「この商品を買った人は次の商品も買っています」といったメッセージを個別送信。
④ ゲーミフィケーション(ゲーム性による楽しさ)
業務の中に、ゲーム要素や競争要素を取り入れるだけでも、行動を促すことができます。
- 毎週の提出回数や処理スピードをランキング形式で表示し、上位者に社内で使えるクーポンを提供する仕組みを導入する。
⑤ ゴール提示(目的と達成イメージの明示)
目的が明確になると、人は行動しやすくなります。
- 「今週は5件の提案を目指しましょう!」など、比較的達成しやすい目標を提示する。
- オンライン申し込みで「あと3ステップで完了です」とメッセージを表示し、中途離脱を防ぐ。
⑥ フィードバック(行動結果の通知)
自分の行動がどう評価されたかを知ることは、継続のモチベーションにつながります。
- 「あなたは今週、4回提出しています。素晴らしいペースです!」といった個別フィードバックを自動表示することで、提出率を向上させる。
- 「あなたの運転は、エコレベル4でした」と、毎回停車時にドライバーへ通知することで、運転行動を改善する。
⑦ 環境設定(やりやすい状況をつくる)
行動を妨げる小さなストレスを取り除くだけでも、行動を変える効果があります。
- PC起動時にAIツールを自動で立ち上げ、利用を促す。
- 報告書を指定フォルダーに保存するマクロを導入し、保存漏れを防ぐ。
- 男性用トイレの床に、立ち位置を示す足のマークを描くことで、衛生状態を改善。
ナッジは“自発性”を引き出す
ナッジの優れている点は、「人を罰しない」「やるかやらないかは個人に委ねる」というソフトな姿勢にあります。しかし、「自主的」だからこそ、強制以上に定着性が高くなる可能性があります。
ビジネスには、心理学的な視点も必要です。仕組み化がうまくいかない。ルールが定着しない。そんなときは、「無意識にやってしまう仕掛け」を考えてみてはいかがでしょうか?